桃 林 閑 話 04 |
文化財を保存するということ 京都市山科区にある醍醐寺は山上にある上醍醐と山下の下醍醐の二つの伽藍からなる。観光客がよく行くのは下醍醐であるが、実は上醍醐は草創の地で、薬師堂をはじめ清瀧権現社、如意輪堂、さらには西国三十三所の札所でである准胝堂など、重要な建物がたくさんある。とくに薬師堂は醍醐寺の創建者、聖宝が建てたもので、現在の建物は保安二年(1121)に造られ、国宝に指定されている。堂内には聖宝が作らせた当初のものと考えられる薬師三尊像が祀られていた。重量感のあるどっしりした仏像である。 現在この仏像は、下醍醐の霊宝館に移されて、容易に拝観することができるが、かつてはかなりめんどうな手続きと努力をして拝観しなければならなかった。まず上醍醐の寺務所に拝観申請を出して、日時を合わせて堂を開けてもらわなければならない。上醍醐までは下醍醐から車では行けない。歩いて1時間ほど坂道を登ることになる。けれどもそんな苦労をして拝観した薬師三尊像は静寂な薬師堂の中ですこぶる見るものを威圧する存在感があった。あの重厚感は、宝物館に移ってからはなかなか味わえない。それはなによりも薬師堂の堂内という視覚的には古材で構成された古めかしい空間と、創建した聖宝自身が祈った場所であるという意識がないまざった感覚であったと思う。そんな貴重な経験であった。 薬師三尊像を山下の宝物館に移したのは第一に文化財の安全保管を目的としたものであろうが、公開の意味もあったかもしれない。気軽に見学できるようになったのはたしかにありがたいことではある。けれども、近年の文化財保護と公開の動向は、着実にそのものが本来あった場所や在り方からは引き離す方向にある。善悪の判断は措いて、このことはしっかりと意識しておくべきである。 岩手県平泉の中尊寺金色堂であるが、かつては室町時代の覆い堂という建物のなかにあった。俳人松尾芭蕉が立ち寄って『奥の細道』の「五月雨を降り残してや光リ堂」と詠んだのはこの中にあった金色堂である。それが現在はコンクリート造りの新覆い堂の中で、すっぽりと堂そのものをガラスケースに納めて展示されている。見学者は、その燦然と輝く堂を、内部に安置された仏像ごと見ることができる。たしかに文化財としては安全だし、見学者にとっても好都合なのかもしれない。けれどもそのきらびやかさが、金色堂本来のあり方であったかどうかは、いま少し考えてみる必要がある。現状は、少なくとも松尾芭蕉の五月雨の中の「光り堂」のイメージはない。本来はどのような環境に何を意図して建てられていたのであろうか。 私たちは博物館で文化財となった美術遺産を見ることに慣れてしまっている。屏風は立てずに平面にして、襖絵は部屋の角を無視して平たく、額縁に収められた絵のようにして見る。大徳寺塔頭聚光院方丈の襖絵は、桃山時代の画家狩野永徳の才能がほとばしったような名画群である。現在は、京都国立博物館に寄託されていて、通常は博物館の展示室で見ることになる。ところが、最近この襖絵が試みとして期間を限って聚光院に戻され、そこで特別公開されることがあった。わたしもそれを見にいったのであるが、同じ時代に建てられた方丈の内部空間に襖絵が納まると、襖絵が本来の目的を発揮して建物そのものが豪奢に、贅沢な空間を演出しているように感じた。こういう絵の見え方がするのだという発見であった。 歴史的な文化財を安全な保存へ、という考えは理解できるし、その優先の傾向は今後もつづくであろう。けれども実際には、個々の場面ではそれぞれの関係者が折り合いをつけているところがあるように思う。有り体にいうと、所有者の意向によっては、頑として仏像を元の堂内から移さないところもあるし、道具を行事に使用しつづけることもある。それは考えがあってのことで、どっちがよいとはかんたんにはいえないのである。保存する、公開する、という一見正当にみえる行為は、実は本来の姿を変更することだ、という事実を知ったうえで、それでも保存と公開が優先される、という自覚と責任が必要である。安易に文化財の保護、一般への公開、といった単純な論理だけで考えてはならないと思う。 (2025年3月19日) |