桃 林 閑 話 03
 
 
                                    

                観光ということ

 研究員のとき、大学の歴史学の学科で学生を引き連れて史料探査旅行というのを毎年していた。一般には知られていない遺跡や、未公開の寺社にあらかじめお願いして行くのであるが、これがなかなかたいへんであった。準備はともかく行ってからの挨拶、お礼など、だいたい話が延びて時間どおりいかないことになった。
 あるお寺へ仏像を拝観に行ったときである。二十人ぐらいの学生で、もちろん数人の教員も同行しているのであるが、ご住職から大声で「人の家に入るのに履物をそろえるのは当たり前だろう。直してこい」と大声で一喝された。みんな慌てて靴を揃えて本堂に入ると、今度は「ここは寺だからまず読経する。しっかりと唱和しろ!」というので、みんなで正座してお経を読むことになった。みんなびくびくであった。
 しかし、そのあとの仏像の拝観や、説明はていねいで、質問にもにこやかに答えていただいた。辞すとき謝礼を差し出したのだが、寺の仏像は公的なものだからといって受け取ってくださらない。「仏さまの御燈明料です」といったら、「御燈明料」ということなら、ありがたく頂戴しましょう」といって受け取ってもらうことができた。いまだに忘れられない強烈な思い出であるが、あれは教育的配慮であったか、と思い当たると同時に、あの頑固なまでの筋を通した姿勢は、一種爽快感すらあった。
 お寺の仏像を拝観するというのは、たしかにそういうことだと思う。
 わたしたちは観光という名で見せてもらうことに慣れてしまっているが、ときどきそんな反省をさせられることがある。ローマのバチカンのシスティーナ礼拝堂に行ったときである。あそこはミケランジェロの最後の審判の天井画が有名なのであるが、みんな顔を上へ向けて絵を見ているうちに、指さして絵の場所を指示したり、互いに感想を言い合ったり、感嘆しているうちに、その声がざわざわと湧き上がる。するとどこにいたのか、ひとりの背の高い監視員が、両手を何回か打って静粛を求める。そうだった、ここは厳粛な礼拝堂という信仰の場所だったとはじめて思い至るのである。けれどもしばらくは静かになるのであるが、またしばらくしてざわざわっとし出す。するとまたその監視員が手を打ってそれを制する。そんなことが何回もつづくのである。
 日本のお寺もヨーロッパの教会や礼拝堂も同じことで、宗教施設なのである。観光という一面だけでみれば、僧侶や監視員は邪魔ということになるのかもしれないが、逆に僧侶や神官、聖職者のいない建物だけのお寺や神社、教会にどれほどの魅力があるだろうか。そこがテーマパークとの違いであろう。観光とはその場所に根ざした信仰や仕事、習慣、そんなものを一切合切含めた生活感を伴うものであって、僧侶や神官、聖職者はうるさく思う人もいるかもしれないけれど、やっぱり必要な存在なのである。
 大学で、学生が京都の観光振興策を企画する授業があって、あるグループが日本のお寺や神社は入場を閉め切る時間が早過ぎるので、もっと遅くすべきだという提案があった。そのとき私が思ったのは、それなら朝早く行けばいいのに、ということであった。神社なら日の出とともに開いている。でもそんなことは考えないのだな。もう少し生活している人の立場も考えてほしいな、いうことである。
 あまりにも見せる観光を優先すると、かえってそこにある生活感といった魅力も失われてしまうことになりかねない。人をよんでお金を落としてもらう「観光」は地域振興ではあるが、ありていにいえば商売である。そこから抜け落ちてしまう生活感のある魅力が失われてしまったら、ほんとうの意味で魅力のある観光にはなっていないような気がする。   
(2025年2月3日)
 
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