桃 林 閑 話 02
 
 
                                    

                生活圏と観光圏の重なり

 京都の人はふつう、金閣寺にも二条城にも嵐山にも行かない。でも清水寺はもしかしたらたまには行くかもしれない。けれどもそれらの場所はいわゆる観光客の行く観光地で、自分たちの生活圏とは直接関わりのないところである。祇園や先斗町はどうだろう。昔は室町の檀那衆が遊びに行ったかもしれないが、いまやそんな経済力はない。それに代わって勢いをもった人たちが遊びに行くのだろうが、それでも以前から京都の人がふつうに行く場所ではない。

 ところが京都に来る観光客の京都のイメージ、あるいは観光に行くところはほとんどこういう所である。つまり京都の生活圏と観光客の見物範囲は重なり合うことは本来なかった。ところが、現在は事情が少し違ってきた。観光のジャンルというか領域が広くなったために、観光客が街中の生活圏に入ってきたからである。錦市場は、ふつうの京都の人が買い物をする場所ではないからそんなに影響はないかもしれないが、それでもたまに行ったら外国の人が多くて驚いてしまう。錦は高級食材を扱う料理人の玄人が買うところだと思っていた我々に、椅子を置いた店の出現や、食べもって歩く人々の姿はさすがに奇異に感じてしまう。

 祇園祭もそうかもしれない。山鉾巡行や宵山が混雑するのは以前からそうであるが、近年は鉾の組み立てから街中は人でいっぱいだ。SNSなどの情報で祭のいろんな側面が広報され、そうしたことが知られるのはけっこうなことで、それはそれでよいことだと思う。ほんとうの京都の魅力は京都の生活圏の中にある、と考えるからである。
 けれども、生活圏と観光圏の重なりは問題も起こしかねない。観光客には観光地と生活圏の判別がきわめて希薄だから、すべて等しく観光地なのである。祇園では舞妓さんが着物を触られたり、群がったり、というのが問題になっている。京都の多くの人には無関係でも、祇園で生活する人にとっては迷惑であろう。しかし同じことは街中でも起こっているから人ごとではない。街中にゲストハウスが増えて、夜中でもスーツケースを引く音がするし、バスの中もスーツケースで人が通れない。通る人に無反応で、スマホの画面だけ見て自分の世界だけで歩いている。個人的な経験からいうと、錦にある包丁の有次という店に包丁を買いに行ったら、外国の観光客に店員が占領されてしまって、買うのを諦めたことがある。たしかにマナーの問題ではあるのだけれど、一番重要なのは京都の地域社会に対する無遠慮やリスペクトの欠如ではないか。一概に悪いとはいえないが、祇園祭や五山送り火で何万もする料理付きの観覧席をつくって顰蹙を買うのも、いきつけばそんなところに問題があるかもしれない。

 しかしこれは一方的に観光客の問題ではない。そのように観光を誘導してきた行政や業者の責任でもある。近年、大学のカリキュラムでは、経済的効果のある観光の企画を考えることは指導しているけれど、よその文化を考えることや、それを知ることの重要性とむつかしさといった、観光するということの意味についてはほとんど教えられない。観光と観光業は違って、後者はいかにお金を落としてもらうかを考える産業である。つまりお金儲けに結びつくことだけをよしとする、そんな風潮がある。いまは観光客がそれにうまく乗らされているところがある。たしかに観光客に来てもらうことは嬉しい。けれども観光の意義はやっぱり京都らしいところを見てもらうことで、それは基本的にはお金とは関係ないことである。そのためには地元の人と接することが近道だとは思うのだけれど、いまはそんな教育がされない。それでも、その前提になるのは、地元に対するリスペクトだと思う。   (2024年8月13日)
 
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